看取りのイベント化について思う事

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一週間近く更新が滞ってしまいました;;
本日もご覧いただき、ありがとうございます。
フリーランス介護福祉士の『心』です。
今日は、最近、疑問に感じてる看取りのイベント化について書いて行こうと思います。

看取りって?

まず看取りについて書いてみようと思います。

これは、あるところで見かけた看取りの定義なんですが、

看取りとは近い将来、死が避けられないと判断されている人に対して、身体的及び精神的苦痛を緩和し軽減するとともに、人生の最期まで尊厳のある生活を支援する事と定義されています。
つまり病人の傍で生活上の世話をする、最期まで見守る、看病をするという患者を介護する行為そのものを表す言葉として使われています。
尊厳のある生活を支援する事とは、本人が長い時間をかけて培ってきた生活習慣を尊重するという事です。
寝たきりになってしまったり、動ける範囲が狭まってしまった場合でも、状態が変わる前のその人の生活習慣が出来る限り継続できるように支援する事なのです。
更に尊厳のある生活を支援するということは、尊厳のある死を支援していくとも捉えることができます。

すごく端的にわかりやすく書かれていたのですが、
ポイントとしては、
・終末期を迎えた方の生活上の世話をしつつ、最後まで見守る行為
・生活習慣を尊重する
ことにより、尊厳のある生活を支援し、尊厳のある死を迎えることができるよう支援していく。ってことですよね。

ただね。
これが、最近イベント化してないですか?っていうのが今日の内容になります。

看取りのイベント化って?

タイトルにも書いたのですが、『心』は看取りがイベント化しているのではないかと疑問に感じています。
で、イベント化ってなに?って話なんですが・・・

人生にはたくさんのイベントがあると思うんですね。
例えば、「成人式」とか「結婚式」とか。

成人式=成人する年齢に達して、これから大人として扱われることに対する祝いの席だし、これまでに比べて「大人として扱われる」という変化。
結婚式だって、結婚することに対しての祝いの席で、これまでに比べて夫婦として生活していく変化があります。
つまり、『心』が思うにイベントって何かが変化することに対して行われることだと思うんですね。

それこそ、葬式だってそうですよね。
人が亡くなるという変化。それに対する弔い。
不謹慎かもしれないけど、人生で最後のイベントですよね。

でもね、看取りは違うじゃないですか。
だって、定義として上にあげたように、
【それまでの生活習慣を尊重する】んですよ?

終末期に入れば、結果として生活上での多くのことが変化してしまうのは当然です。
体力の低下により身体的な能力は低下してくるでしょう。
意思表示だって不明瞭なものになっていく場合が多いです。
それまでできていた行為が行えなくなる。
結果として変化は訪れます。

でもね、それはあくまで、終末期を迎えた方の変化です。
本人にとって苦痛になるから、行わなくなったことも含めて。

わかりやすく言えば、以前は車椅子に移乗してトイレに誘導してたけど、その介助を受けることすら苦痛となってしまい、結果としてオムツで対応する。
とかね。

それが最近イベント化している。
つまり、積極的な変化を伴って扱われているんじゃないかって感じてるんですね。

細かい事ですけど。

介護施設での看取り対応ってDNR(do not resuscitate 直訳:蘇生するな)やDNAR(Do Not Attempt Resuscitation 直訳:蘇生を試みるな)
の意思確認によって始まることが多いと思うんですが、それによってすぐに本人の状態が変わるわけではありません。
だって、最期はこういう対応をして欲しいという意思表示をしただけですもん。
ここで、積極的な治療を行いたい意思表示をすれば退所して医療機関への入院が必要となるので、施設や自宅での看取り対応にはなりません。
また、身体的、精神的な苦痛が強すぎて、医療の介入が介護施設で行うことができる範囲を超えていた場合も同じですよね。

でも、DNR(DNAR)の意思表示をした時点では、あくまでも施設での死を受け入れるという意思表示をしたにすぎません。
なのに、看取り対応が決定したから、対応が変わりました。って場面を多く見ませんか?
看取り対応が決定したから、オムツになります。とか。

正直、関係ないですよね。
本人が行けるなら、トイレ行けばいいし。
介助が必要ならすればいいし。

【それまでの習慣を尊重する】ことが求められているのに、支援する側が【積極的に変化させてしまう】場面が多く見られるように感じているんですね。

最後に

最近、SNSでも看取り論争が起こっていました。
それも発端は【看取りをすることで介護職員の社会的地位が向上する】みたいな内容からだったように思いますが、
終末期を迎えている方の尊厳を守ることが目的であるのに、介護職員のステータスアップのためのイベントになってしまってるんじゃないかなと思ったことの一つですね。

もちろん、介護施設が看取り対応を行うことができるよう努力すること自体は素敵なことだと思います。
でも、それはあくまで利用者のため。

だから、看取りができない施設=ダメな施設ではないし、看取り対応しない施設の職員=ダメな職員ではないですよね。
同様に、看取り対応する施設=良い施設でも、看取り対応する施設職員=すごい職員でもないです。(一つの経験として尊重しますが)

評価されるべき点としては「利用者の意思が尊重されている」という所ですよね。

そういう意味で言えば、死後のこともそうです。
「亡くなった方と一緒に入浴して整容を整える」なんていう嘘かホントかわからない対応を聞いた事がありますが、
全員に対してしている時点で、本人の意思とは関係ないですよね。

少なくとも、僕はお世話になった介護員さんと一緒にお風呂に入りたいとは思っていないので、遠慮願いたいです。

そんな風に、看取りをしていく中で重要なのは、「どこで死ぬか」「誰が対応するか」「どんな対応するか」とかではないです。
『どこまで本人の意思のもとに行われたか』『それまでの生活習慣がどれだけ尊重されたか』こそ重要なことではないでしょうか。

ことさら看取りがクローズアップされている感じがする最近ですが、職員の精神的・身体的な負担は別として、あくまで、利用者本人にとっては【本人の意思のもと】に【生活習慣を尊重】して支援するという意味では、それまでの介護・支援と大きく変わるものではないのではないでしょうか。

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